宮城県石巻市より報告2(4/4−7)

By , 2011年4月10日 1:40 AM

4月7日の深夜11時32分、震度6の地震がいきなり襲った。私はちょうどテントの中で眠りについたところだった。地面の下から背中を押し上げられるようにすごい揺れが、かなり長い時間続いたように思う。今までに私が経験した地震の揺れはいつも横揺れで,短いものであった。しかし今回の揺れは下から突き上げて上下に激しく揺れる震動で、気のせいか地震による地鳴りも耳にした。寝袋からはい出すように抜け出し表に出た。大きなサイレンが鳴り始め、津波警報を知らせるアナウンスが真夜中の静けさを打ち消した。各テントからは、ボランティアに来ている人々がめいめいに這いずりだし、懐中電灯の明かりがイカ釣り船の明かりのようにそこら中で忙しく輝きだした。まるで、映画の中の敵の襲撃、空襲などのように、サイレンが鳴り響き、人々が大学の校舎の方に足早に避難を始めた。
 
しかし、さすがにボランティアにわざわざ来ている志し高き人々なので、この混乱した状況にも関わらず、冷静に大学校舎の3階の方に向かった。暗がりの部屋の中、人々は固唾をのんで静かに座っていた。ラジオを持っている人が、緊急情報を流し、また、救急隊員が気分の悪い人がいないかを確認しながら部屋をまわる。約一時間くらいそこで待機して警報が解かれておのおのテントへと戻っていった。みんなが部屋から出て行くときに、天井からライトが落ちてきたが誰もけがはしなかった。ちょうどこのような不安定な天井を予測していて立ち入り禁止のひもを張っていて誰もその下にはいなかった。震源地は仙台近辺。津波の被害はなかったようである。
 

総勢55名


 
4月4日から再び、石巻入りをした。今回は、総勢51人の隊となった。イヴューサの学生28人と国士舘大学のスポーツ医科学部の学生が約20人参加しての隊となった。
 
到着して、本部となる大きなテントと調理できるようなテントを隣接させてたて、その周りに9つのテントを張った。一つのテントには5人の学生、中には6人の学生が、イワシの缶詰のように入り、分厚い寝袋にくるまって寝返りもうてないくらいのスペースでのテント生活をしながらの、ボランティア活動となった。
 
移動を含めて5日間、3日間の泥だし作業を行った。河北という地域にての作業となった。
この河北地区での作業前に、村で家が全壊しなかった方(村長さん)が作業前にみんなに挨拶をした。
 
実は、ここに小学校があって,地震津波警報が来たために小学生全員を校庭に出したところ、堤防を壊して襲いかかってきた津波に飲み込まれて、流されてしまい、今もなお行方不明の子供たちが160人のうち140人くらいいるというあまりにも悲しい事実を知らされました。そのために、みんなにひょっとすれば遺体を見つける事になる可能性がなきにしもあらずという事を伝え、学生たちは、悲しい事実を心にとどめて、気が引き締まったような様子であった。
 

作業の打ち合わせ

学生たちは、9人一班、5班に分けて班ごとに作業を行った。各班には班長がいてみんなの様子と仕事の割り振りをして作業にあたった。
各班ごとに各家の泥掻きを行った。家の地下にたまった泥を出すためにまずした事は、洪水で浸水して泥だらけになった家財道具、押し入れの中の布団、引き出し、食器棚、テレビ、洗濯機、テーブル、洋服棚はすべて水浸しになっていた。水はちょうど一階の畳から180センチくらいの高さまで来ている様子を表す水の跡の線が壁に残されていた。
 
私が参加した家では、若いお母さんと中学生くらいの娘さんが二人で重たい荷物を外に出しているところであった。マスクをしたお母さんのほっぺたには、跳ねた泥がついていた。ただ静かに黙々と作業をしていた。私たちは濡れて重たくなった畳を取り出し、すべての家財道具を取り出した。二人一組になり荷物を運び出し、三輪車を使って細かいゴミを外の道路脇へと運び出す。そのあと、母屋からはなれた大きな車庫の泥を掻きだし、そこにまだ使えるものを丁寧に並べた。学生たちは、この母娘に明るく話しかけて、はじめのうちは少し硬い表情だった二人の表情に少しずつ笑顔がゆっくりと戻りつつあった。学生の一生懸命に手伝う姿と、元気で天然の愉快な姿に少しこわばった心が温かく解けていくのを感じました。
 

お手伝いをさせていただいた家族とIVUSA

各家庭で、そこの家の住民の人たちと作業をともにして、仲良くなり、来年は釣りにおいでと誘われて約束をかわした学生たちもいた。
 
仕事はすごく厳しいものであった。一日中重たい荷物を運び、異臭を放つ泥を掻きだす作業は、普段の生活であればまずしようとは思わない仕事であろう。しかし、津波の被害で多くの大切なものを失い、また家族を失って生きる元気を失った悲しみに暮れている人々のために、少しでも役に立ちたいという一つのみんなの共通する願いと思いがあるから、疲れはあっても、気合いでみんながんばっていた。 3日間同じ現場に入って仕事をした。2日間で切り上げてほかの現場に移ろうというボランティアセンター本部の要望にこっそりと逆らって、最後まで縁のあったこの住人の方々のために、全部終わらすぞとみんなが口を揃えて働き続けた。その姿はあまりにも美しく輝いていて、私の目にも住人の方の目にも、すべての人々の目に、はっきりと映っていた。
 
人の悲しみを自分の悲しみとして感じる。
 
一人がみんなのために、みんなが一人のために。
 
自分の事は脇に置き、他人の事を考える。そして実際にその人たちのために行動する。そうすれば自分の小さな欲望を満たすよりも遥かに大きな喜びと幸せを感じる事ができる。
 
 
4月5日。2日目

イヴューサ代表、スタッフ、学生二人と私で、南三陸町に視察に行った。自衛隊が管理している物資を取りまとめているキャンプへと、南三陸町の避難所、各家庭に配るために物資を受け取り出発。今回自衛隊のキャンプからピックアップしたものは、水道が再び使用可能になる地域も増えているので、主に日用品である。ボディシャンプー、シャンプー、リンス、歯ブラシ、耳かき、そして、要望も増えているサンダル。長靴をはいて作業をした後、気楽にはけるサンダルが欲しいという声を聞き、サンダル。そして、野菜ジュース、ココアジュース20ケース、後、朝晩の冷えからくる喉痛のために、のど飴等を手に入れて車を走らせた。
 
南三陸町近辺は被害がひどく、海岸近辺の家屋はすべて流され、そこに集落があった事さえ信じられないほどひどい状態だった。車でさえ原形をとどめておらず、すべてが形を変えてそこに散乱しているというあまりにもむごたらしい状況でした。自衛隊のチームが、クレーン車やブルドーザーを使って作業をし、他府県からの警察が隊をなして動き回っていました。ボランティアが入るにはあまりにも危険というか、人が入って作業できる状態ではなかった。
 
南三陸町の役場兼避難所には、特設ボランティアセンターが設置されており、そこでの仕事の状況を聞く。やはり、撤去作業は自衛隊、警察のみが行っており、ボランティアは届けられた物資の仕分け、また受付などの人手を必要としていた。来週の4月15日にはイヴューサ100人学生チームが組織として生かされる状況ではなさそうであった。この避難所では、銀行の特設デスクが外に設けられて銀行職員がいろいろなサービスを行っていた。また、ある携帯電話会社がテーブルを出して、各種携帯電話の充電サービスを行っていた。また、イスラエルの軍隊の医師団が、日本の厚生省を通して、日本人医師団と協力して医療クリニックを設置していた。大きな軍服を着たイスラエル人たちが田舎の小さい腰の曲がったおばあちゃんたちの中を歩いているのをみて、少し驚きました。また、ラーメンの銘柄でデザインされたトラックがラーメンを配っていた。
 
私たちは、物資がしっかりと行き届いているのを確認して次へと移動した。
ちょうどこの町に、イヴューサの女子学生のおじいちゃん、おばあちゃんがすんでいるとの事、急遽逢いにいく事にした。祖父母の家は丘の上にあり、被害はなかった。しかし水道が止まっているために、井戸水を汲みに歩いていかなければならなかった。重たい水を運ぶために。家につくと、おばあちゃんが庭先に出ていて、車から飛び出して走っていく彼女の姿が微笑ましい光景となり私の心に残されました。おばあちゃんにも大きな笑顔が浮かび上がり、少し控え気味ながらも感動的な再会であった。おばあちゃんに物資が届いているかを聞いたところ、遠慮気味に足りていると言っていたが、誰もが限られ物資で厳しい生活している事を知っているので、ミネラルウオーター、野菜ジュースなどをお渡しして次へと向かった。
おばあちゃんの家にいく道をこの女学生がわからなく道に迷うほどそこの集落は原形をとどめていなかった。
 
海岸沿いを車で走れば、そこに広がるのは無残にも崩壊した屍のような町の跡。人知を超えた自然の驚異と、人間としての無力さを感じざるを得なかった。 途中、地元の子供たちと、赤ちゃんを背中に背負ったお母さんを見かけたので、ジュースなどの物資を届けた。
 
 
4月6日。3日目

岩手の大槌町へ応援の要請があり、早朝に石巻を出発した。災害救済の経験豊富な知識をもったイヴューサの職員を先頭に、学生二人と私の4人で出動。
 

街のあったところ

現地とその周辺地域の状況は、南三陸町と同様にすべての村がむなしくも崩壊していた。リアス式海岸という名を昔聞いた事があるが、海岸沿いの町が湾になっており、また山に囲まれてその間に川が流れるという地形だったと思う。すべてが津波に飲まれ、川が増水して川沿いの村々をすべて流し去っていった。
 
大槌町の集会所には、たくさんの青年団のボランティアがヘルメットをかぶって待機していた。そこのボランティアセンターの担当の方と一緒に依頼のあった家屋へと移動。泥だしの依頼であった。そして、この経験豊富なイヴューサの職員が、どのように床をはがすか、ヘドロを掻きだす重要性等の指導を行い、床板をはがして泥の掻きだしの作業を地元ボランティアの人たちが汗を流しておこなった。
 
床下にたまったヘドロは異臭を放つだけでなく、いろいろなバクテリアや病原菌を生み出すもととなる。特に田舎の方の下水道が今でも汲取式が多いので、汚物などもすべて流れてくる。特に夏の暑い日にはそのような病原菌が発生しやすくなるとのこと。また、シロアリが発生して床下の木を食いつくしていくので、基盤が弱まり、長くその家に住む事ができなくなる。
 
 
4月7日。4日目

雨の中での炊き出しに、たくさんの人が体と心を温めていた

今日は、イヴューサの代表の知り合いのNPO団体が中華料理のお店と一緒に炊き出しにきた。横浜の中華街でお店を出すほどのかなり有名なお店らしく、とてもおいしい中華まんとあんまんを持ってきてその場で蒸して熱々の肉まんを人々に提供をしていた。また、豚汁も皆さんに配られていた。場所は被害があった地区の街道にあるお店の駐車場にてテントをたてて炊き出しをした。雨が降っていたにもかかわらず、たくさんの人がお昼の時間には列をなして、肉まんと豚汁をほおばっていた。15人のメンバーがテントのセッティング、調理、食事の支給、交通整備、列の誘導などなど、集団行動において統率が取れて、たくさんの人々のおなかと心を満たしていた。

私はできる限りの家々の扉をたたいて、また大きな声で家の前から呼びかけて一人でも多くの人に炊き出しをしていることを伝えに行った

その街道沿いは被害がひどく、多くの住宅が浸水し,かなりの家が崩壊していた。しかし、半壊の家に住んで生活している家族も多く、私も少なからずお手伝いをしようと、持ってきた折りたたみ用の自転車で各家を訪れて、炊き出しをしている事を伝えに行った。各自の家々で生活している人々は、やはり避難所よりも炊き出し、物資の配給等の情報が少なく受け取り損ねる事が多くあるという事実がある。そのため、私はできる限りの家々の扉をたたいて、また大きな声で家の前から呼びかけて一人でも多くの人に伝えて、おいしい豚汁と肉まんを食べて元気を出してほしいと心から思ったのです。
 
今日、津波被災地の現場に来て初めて涙がこぼれ落ちました。言葉ではどのように表していいのかわかりません。ただ、何度も心の中の熱いものが沸々とわき上がってきて、ただ涙がわき上がってじわっと私の目を満たしていく。今までは、ひどい被害のあった地域をみて、圧倒されて悲しくなっても、今日のように感情的になる事はいままではなかった。おそらく直接的に被害のあった人々と接する事ができたので、それで私の心の中で化学反応がおこりました。
 
家の中でぽつんと座っている腰の曲がったおばあちゃんが、わざわざ起き上がって表にゆっくりと出てきて扉を開けてくれました。
 
おばあちゃんは少し不安定な足取りで部屋の床をすべて取り除いて板をのせるための角材の上を歩いて来た。私はあわてて「おばあちゃん、座って座って」と言ったのにも関わらず、ゆっくりと骨組みの角材の上を腰を曲げながら歩いて来た。そして、「炊き出しの豚汁を作っていますのでどうぞお越し下さい。」と伝えると、おばあちゃんは、すごくうれしそうな笑顔で、「わざわざありがとう。ありがとうございます。」と何度も何度も頭を下げて合掌をした。
 
ある家庭では、小学生くらいの男の子が出て来て、炊き出しの事を伝えたところ、奥にいるお母さんに、大きな声で「暖かい豚汁がもらえるって!行こうよう!」と叫んでいる声に元気のよい興奮がききとれた。
 
またどこかの集会所で物資をもらうために列をなして並んでいる人々に大きな声で「近くの場所で炊き出しで豚汁を用意していますので、どうぞお越し下さい。すごく暖かくておいしいですよ!」すると、多くの人が恥ずかしげもなく大きな声で「ありがとうございます。ありがとうございます。」と頭を何度も何度も下げていた。本当に私ごときのものが、感謝されるほどのこともしていないのですが、ただ、ただ、私も頭を下げて照れ笑いで去っていきました。
 
この小さな出会いとふれあいが、私に喜びと幸せをもたらしてくれました。
 
アンマのアルチャナブックに書かれているアンマの言葉を思い出します。「なんで自分が、どうして私が」というような自分の事はさておき、「どうしてほかの人々は、みんなは?」とまず他人の事を思う事を優先としよう。この答えを体験を通して学びました。自分の欲望を満たしても得られない喜びと幸せ、そして感動をいただいたように思います。
 
また若いご夫婦が忙しそうに雨の中を泥だしをしている。新築で最近建った様子の豪華な家は、少し傾き半壊していた。前に車がひっくり返って家の前の壁に乗っかっていた。ただ黙々と作業をしていた。私はお二人に声をかけた。二人は疲れた表情を見せて私を見つめて話を聞いていた。すると大きく輝く瞳を私に向けて、頭をさげて、「わざわざありがとうございます。はい、伺います。」そして、言葉を超えて何か通い合える喜びを感じる事ができた。「寒いですから暖かい豚汁を食べてくださいね、お鍋をもってきてください!」疲れた表情に明かりが輝き、笑顔が戻った。宮城の方言で、感謝の気持ちを伝えてくれた。ほんの短い会話にすぎないけれど、すべての人々が喜びを惜しげもなく表現してくれて、感謝の気持ちを伝えてくれた。そして逆に私を励ましてくれる人もいました。私が出会った人すべてがすごく丁寧で、しっかりと私の目を見つめて、ひどく苦しくつらい状況にも関わらず笑顔を、本物の喜びを表した笑顔を与えてくれました。
 
多分、状況のひどさによる同情や悲しみも少なからず私にもあったと思いますが、それ以上に人々の、人間らしい優しさと強さに心を揺さぶられたのかもしれません。本当の強さがあるから優しさを私のようなものにあたえてくれたのかもしれません。また逆に、私のように一軒一軒の家を回って炊き出しのことを伝えに来てくれた事に対しての驚きと喜びも少なくはなかったのかもしれません。本当に私個人でできる事は限られていると思います。もっと自分に何かができるかもしれないと未熟な自分にいらだちを感じたりもします。しかし、少しでも笑顔、心からの気持ち、「もし逆に自分がこのような状況にいたならどういう気持ちなのだろう」「もしこの人たちが自分の両親だったら」と考えて人に接するようにしたら、少なくとも気持ちは伝わるのかなとも思います。
 
雨の中、涙はこぼれたが、なぜか心の中はとても暖かく、まるでアンマの懐にいて抱きしめられている不思議な気持ちと感覚に浸っていました。アンマの慈悲深い愛を持って、アンマの手の中の道具として人々のためにお手伝いができれば本望です。
 

濡れて重くなった畳を運び出す

床板を外してヘドロを出し石灰を撒く

同時進行で、今日イヴューサの学生8人が70歳のおばあさんの家の家財道具を出して濡れた畳を取り出しその下の床板を外し、ヘドロを出して石灰を撒くという作業をしていた。平屋の小さな家に一人暮らしの70歳のおばあちゃんが住んでいる。何度か洪水があって床下の角材が腐って腐敗していた。そのために外して、持って来た角材で枠を作り、ベニヤ板をしっかりとのせて生活しやすいようにした。
 
おばあちゃんはとてもかわいく、お茶目で、学生たちと意気投合して冗談を連発して楽しいひとときをみんなで過ごしていた。最後には一緒に記念写真を撮って学生たちとメールや電話番号を交換して別れを惜しんでいた。そして、別れ際にはおばあちゃんは押さえきれずに涙が溢れ出し、学生たちもギャグを言って場を盛り上げようとしていた。学生たち全員が車に乗り込んで去っていくとき、私たちの車が小さくなって見えなくなるまで小さく手を振り続けていたかわいらしいおばあちゃんがバックミラーに映っていたのを私は胸を熱くしながら見つめていました。
 

一人暮らしのおばあちゃんは車が見えなくなるまで小さく手を振っていた


 

6 Responses to “宮城県石巻市より報告2(4/4−7)”

  1. Chihiro より:

    お疲れ様です。被災地は本当に過酷な状況なのですね。その中でも皆さんの明るさが垣間見えるときはほっとしますね。レポート拝見できてよかったです。ありがとうございました。

  2. Ichikawa(sendai) より:

    ヴィヴェーカさんご報告ありがとうございます。
    明るく優しく誠実に取り組むお姿に目頭が熱くなりました。
    だいぶお疲れのことと思います。
    お身体大切になさってください。
    ほんとうにありがとうございました。

  3. VARADA より:

    お疲れ様でした…。7日の余震大きかったですよね…。3月11日はこのような地震が1時間の間に4回ぐらい続きました…。
    石巻にいらしている皆様は大丈夫だったかしら…?と心配していました。

    津波の被害を受けた地域は、今だに電気や水道が復旧していないところが多いので、本当に大変だとおもいます。
    私も来週は、鳴子(宮城県内陸部の温泉地)に避難されている方々のところにボランティアに行こうと思っています。

    ボランティアにいらしてくださったVさんや学生の皆様に心から感謝します。
    ありがとう~!!

    石巻地区の方々は、きっとチカラ強く復興してくれると思います。
    私も仙台や宮城県、そして岩手、福島の復興のチカラとなれるように頑張ります!!

  4. イッチー より:

    お帰りなさーい。
    そして、ボランティアのご報告ありがとうございます。
    現地の様子がとてもよく伝わってきました。
    私も何かお手伝いできればよいのですが、現地に出向くことができません。お役に立てることがあればお知らせくださいね。

  5. ヴィヴェーカさん。ご報告ありがとうございます。
    Ammaの支援にこころから、感謝します。
    どうか、ご自愛くださいね。

    追伸:ヴィヴェーカさんに・・・。アメリカダラスのY・Mさんが「よろしくお伝え下さい。私も、こちらで頑張っています。」とのことでした。

  6. Shanti より:

    はじめまして。私は一般人ですが、以前アンマのダルシャンを受けさせていただいたものです。
    今回の災害で、私の家族や親戚も多数被害を受け、悲しみに沈んでいました。でも何もできない自分がはがゆく、こちらのサイトを見せていただき、皆さんのガンバリに励まされ、小さくても自分ができる事をしようと思いました。
    今日、そのきっかけをくれた「一人がみんなのために、みんなが一人のために」の文章で涙が溢れてきた事を思い出し、このフレーズをもとに曲を作りました。1歩踏み出す勇気をくれたアンマと、これを書いた方に心から感謝いたします。
    いつか聴いていただけたらと思います。(歌詞を載せさせていただきました)

    「心ひとつ」

    世界が平和になりますように
    生きとし生けるものすべてが しあわせになるように

    降りそそぐ雨は 空からの恵み
    人も 花も 鳥も ひとしく 愛につつまれている

    うれしいときも(共によろこび) かなしいときも(側にいるよ)
    心の奥で(私たちは) 深くつながっている

    一人はみんなのために みんなは一人のために
    神の愛を胸に この手を使おう

    道端に咲いた 小さな花は 人知れず 花びらを広げ
    「力」と「希望」をくれる

    「愛」と「勇気」の 翼を広げ
    空高く舞う鳥のように 自由にはばたこう

    大きな愛に(神の慈愛に) つつまれて(どんな時も)
    大地と共に(私たちは) 生かされてる

    一人はみんなのために みんなは一人のために
    心ひとつにして この手をつなごう

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