宮城県石巻市より報告1(3/28−4/1)

By , 2011年4月6日 12:00 AM

9名の学生を含む総勢16名で救援に出かけた。この多くが、以前インドに住宅建設に参加してくれた懐かしいメンバーだった。

エンブレイシング・ザ・ワールドによる東日本大震災の支援活動の第二陣として、インドのアンマのアシュラムより日本人のボランティアが、インドからシンガポール経由で帰日、アンマよりさらに被災地の状況を確認してくるようにとの依頼を受け3月28日より4月1日まで宮城県の石巻市を国際学生ボランティアIVUSAとともに訪れた。

IVUSAは、インドでのアンマ、エンブレイシング・ザ・ワールドの津波や地震救済、住宅建設プロジェクトに毎年10年以上日本から100人以上ボランティア参加で訪れる学生の皆さんで、インドで受け入れて、ともに活動している。そのインド・エンブレイシング・ザ・ワールド側でのワールド・コーディネーターである兼松さんが、IVUSAの学生や懐かしいOB・OGの皆さん達とともに今回は逆に初めて日本に場所を移し、宮城の被災地に入って活動参加しました。宮城県石巻市よりの報告です。

 

 

この悲惨な地震がおこったとき、私はインドのアンマのアシュラム(僧院)、アムリタプリにいた。あまりにもひどい光景を目のあたりにして呆然となり、一番初めに頭に浮かんだのは家族の安否だった。電話はその日通じず、結局メールで元気だということを確認してほっとした。しかし、『これでいいのか?家族が大丈夫だとそれでいいのか?友人、知人だけ助かればそれでいいのか?』そんな疑問が心にわいてきた。

『いや、違う!何万人という人が家を失い家族を失い、すべてを失い、苦しんでいる。もしこれが自分の家族、友人であれば自分はどうするか?』このとき日本に帰って手伝いをしたいと決意した。

アンマとシンガポールであって、日本に対してアンマの祝福をいただき、帰国の準備をした。アンマに、IVUSAが既に現地で調査、物資の配給、炊き出し等を開始していることを伝えると、IVUSAと共に活動するようにとのこと。また、日本国内、国外からのたくさんの人々が現地に入ってボランティアを希望していることを伺うと、とりあえず今回は現状が厳しく、制限もあるのでもう少し待ってはどうかというアドバイスをいただいた。

 

福島原発のそばを通るときにはマスクをしめて窓をしめねばならない。

シンガポールから日本に戻った次の日、3月28日には、早速IVUSAと一緒に宮城県の石巻という被災地へと出発。支援物資を積み込み、2トントラック2台と、ハイエースのバンで16人出動。東京から約400キロの石巻まで出発。東北道の高速は途中福島県を通過する。その間、車の窓をしっかりと閉めて、私を含めて8人の乗車員は皆マスクを取り出ししっかりとつけ始めた。気のせいか少し緊張感が走り、皆が会話を控えて静けさが車の中を満たした。

途中高速道路では、救援物資を積んだトラック、たくさんの自衛隊員を後部トラックに乗せたたくさんの緑色の自衛隊のトラック、またサイレンを高らかとならせてものすごいスピードで走っていくパトカー、真っ赤な消防車が、すごく空いた高速道路をにぎやかに、忙しく走り去っていく光景を何度も目にする。

 

3月29日(火)。初日

避難所に避難している女性達もおにぎりの手伝いに出てきてくれた

朝早くに避難所とされている中学校に行き、炊き出しの予約を取る。人数の確認をして、炊き出しを開始。1000人分の食事を作る。献立はたくさんの野菜がたっぷり入った豚汁とおにぎり。

キッチンテントをセットして、ガス、バーナーを設置して料理を開始。野菜は昨日の晩2時に新潟の十日町から直送した。新潟の震災のときに被害にあった人たちが、あのときに助けてくれた恩返しとしてお母さんたちが集まって野菜を収穫してすべてきれいに刻んでハッポースチロールの箱にたっぷり入れて用意をしてくれた愛情たっぷりの野菜。なんと2000人分の豚汁が作れるくらいの分量の野菜。

津波に被災した次の日は、3人に一つ分のおにぎりしかなかったという

この900人が生活する避難所はしっかりと、班が構成されて、朝の7時からトイレ掃除、食事配給係、物資の仕分け班、リーダーがいろいろとみんなの状態を管理していた。避難所には、非常無料電話が設置されて、壁一面には、行方不明者の安否が書かれた紙が張り出されていて、今日のニュースがみんなのために張り出されていた。

おにぎりを避難所で生活する女性たちと一緒にわいわい楽しく作った。料理が出来上がるときには、支給する班が集まってしっかりと食事を配り始める。若い人たちがお年寄りのためにトレーで豚汁を運ぶ。

寒い中で、避難中の方々も温かい食事に喜ぶ

皆はうれしそうに豚汁を食べていた。初めてこんなに野菜の具がたくさん入ったあったかいみそ汁を飲みましたと感謝の涙を目に浮かべてゆっくりと本当に味わって食べていた様子がとても印象的でした。

 

宮城県はまだまだ寒く朝晩は氷点下になるほどの冷え込みようだ。北海道から来た自衛隊の人ですら、『ここの方が寒さが厳しい』とさりげなく本音をこぼしていた。

かわいい子供たちは礼儀がとても正しく、このような状況ですらしっかりと私たちに挨拶をしてくる。また自衛隊が飲用水を配給しているところで出会った小さいお姉ちゃんと弟に、何本もの重たそうなペットボトルとバケツを抱えていたので、持ちましょうかと訊ねたところ、丁寧に頭を下げて大丈夫と言う。そしてこの小さな子供二人は、水を配ってくれた自衛隊員に深々とお辞儀して感謝の気持ちを伝えていた。食べ物もあまりないはずなのに、自衛隊員3人にキャンディーのプレゼントを添えて! 思わず涙が出そうになった。あまりにもこの美しい自然に思いやり分かち合う行動に。何の見返りも求めずに。心がすごく暖まるのと同時に、できる限りのお手伝いを被災された方達にしたいとまた固く心に誓った瞬間だった

 

食事が終わり、後片付けのときには自然と人々が集まり、たくさんの人たちが手伝って洗い物を一緒にしてくれた。

泥だし班

また最後にはたくさんの人たちが表に出てきて、わざわざ私たちに感謝の気持ちを伝えにきてくれた。全く予想もしていなかっただけにすごく感動。IVUSAの学生の一人が挨拶をし、「特に感謝される事などしておりません」と謙遜していたところ、地元の人たちに「いやそんなことはねえ!!すごいよくやった!がんばれよ!!」と逆に励まされました。すごく感動的な一瞬だった。

この日IVUSAは、二班に分かれて行動していた。もう一班は家庭の泥だし作業。津波の被害で浸水した一階から、濡れた畳、水浸しになった家具とその引き出し。押し入れに入ったすべての布団、衣類は水を含んですごく重くなっている。すべて家の外に出す力仕事は大変だ。

 

3月30日(水)。2日目

石巻市街地の様子

朝5時起床。保健所の調査員と一緒に各避難所を回る。津波の被害があった半島を実際に見たが、被害状況はあまりにも悲惨。まさしく村一つがまるごと消失していた。崩壊したビルの屋上に車が反対になってぶら下がっていたり、大きな漁船が道路の真ん中にあり、先端部分が家を突き破っているなど。またその地域はすべてが腐ったような異臭を激しく放っていた。

 

街のあったところ

通りかかった避難所に立ち寄り、物資が届いているかを確認。食事は自衛隊が持ってくるとの事、ここでは女性たちが北海道から送られてきたという薪を使って料理する釜で朝食の準備をしていた。

どのようなものが必要かと訊ねると、ノートやペン、サンダル、便座が冷たいので便座カバーなど。すべてを流されたので一つ一つのものが必要となる。長靴で仕事をした後は、サンダルでくつろぎたい。リストを書き出すのにノートペンも必要。下着等も必要との事、たっぷりと寄贈して立ち去った。

 

避難所の様子

次に保健所の調査員と一緒に避難所を3箇所訪問。

大原小学校と大原中学校で避難している人に、靴下、女性男性下着、パンツ、髭剃り等を配った。

バンからいくつものダンボールを取り出して、避難されている方達に選んでもらう。若い女性が多く、すごく和気あいあいとした商品選びをして、大きな笑い声が響き渡ったのがとても印象的。小さな女の子も一生懸命自分の好みの色柄の下着を選び、また時にはセクシーな大人のパンツを取り出して、そこにいたみんなを笑わせていました。

ある女性は、ブラジャーが欲しいと言う。逃げてきてからずっと同じ物をつけていたのだそうだ。また靴も同様に同じものだと言う。

私たちが想像で必要そうな物を送るのではなく、避難者達が真に必要としている物を調べることが、本当に大切だ。必要な物を事前に避難所とチェックしてから、それを私たちはできるかぎり運んで行った。

しかしどこに行っても今回は若い女性はもちろん、大人もおばあちゃんもおじいさんもみんな、配給の物資の品選びと、新しい新品の下着、シャツ、靴下を、まるでバーゲンSALEの買い物を楽しむかのようにみんなが笑顔で、少し熱くなったひとときであった。やはりみんなが喜ぶ姿、笑い声を聞けると本当にほっとします。そして自分の事のようにうれしくなる。

 

ここの避難所の人々は本当にすべてを失った。村全体が津波にさらわれた村の人々。しかし誰一人として被害がでなかったと教えてもらい、本当に奇跡としか言いようがないという。村の人々の大きな笑い声が響き渡っていた。

あの東日本大地震(東北地方太平洋地震)から19日経った3月30日の夕暮れ時。

もう一班は、相変わらず泥だしをがんばっていた。

 

3月31日。3日目

新潟から来た女性達は、2004年の中越地震の被災者であり、自分たちのお世話になったことを、ここで恩返しできて嬉しいといって、ここに来ている

今日は、炊き出し班と泥だし班に分かれた。今日の炊き出しはスーパーの前にて。被害にはあったが、家屋の二階で生活している人たちへの食事を出すという作戦だ。各避難所はしっかりと管理されて、物資が届きやすく,また炊き出しもされやすいのだが、各家庭で生活されている方たちを把握する事は難しいようで、どうしても物資などの提供が難しくなっている。今回は食事を作りながら、手のあいたものたちが各地域の家々を回って、人々に呼びかけて食事にきてもらうようにした。

このとき、新潟から中越地震による仮設住宅で生活していた人々の集まりが、新潟から大きな厚揚げを持ってきて多くの人々を元気づけるために、振る舞いに来てくれた。

 

一方、泥だし班は,いつものように濡れて重たくなった畳を家の外に運び出す作業を気合いを入れて行っていた。

我々ボランティアの生活は、決して生温い条件ではない。もちろん水道の水も止まっているので、風呂に入る事はできない。トイレの水もドブの泥水をバケツで運んで流すようにした。また朝晩の冷え込みは、寝袋の中でダウンジャケットを着込んでも喉が痛くなり、咳き込んでしまう。食事はもっぱらカップラーメン、レトルト食品。炊き出しのときには、誰も配給の豚汁には手を出さず、何も食べない状況だった。学生に聞いたところ,『一人でも多くの人に食べてもらいたいので、おなかは全然空きません〜』人の痛みを自分の痛みと感じて、人の喜びを自分の喜びと思う。何か普段は気づかされない事が、自然と学べる。そのような人との交流が、人間としてのふれあいがここにはあるのだと思う。

最終日、私たちは1500人分の食事を作った。困っている人々に手をさしのべることができるこの貴重な経験を、すべての人に体験していただくことができたなら、と感じた

そして、学生たちは、そのような状況でも思いっきり楽しんで、若者らしいパワーで、人々に笑顔をもたらしてくれている。

ありがとうございます。

被災した人たちへ、そしてIVUSAの学生たちへ。まだまだ行きまっせ! 待っててください!

4月4日に再び石巻に学生達と戻る予定である。

 

 

 

 

 

泥だしのお手伝いをさせていただいた家族と、IVUSA。(最後列右から2番目がわたし)

One Response to “宮城県石巻市より報告1(3/28−4/1)”

  1. より:

    お疲れ様です。寒い中、けがなどどうぞ気をつけてください

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